(written by ヌマエビ)
「偽の真正仏舎利」 76.真正仏舎利奉安は金集めの手段
阿含宗の道場で祭られている大半の仏舎利は、阿含宗においてすら偽物です。
阿含宗では信者に仏舎利のカスケットに手を触れさせることで人集めをします。
行事の稚拙さはともかく、本物の仏舎利であるとして触れさせているのですから、
信者たちを騙していることになります。
道場に名前だけの真正仏舎利奉安をさせるのは金集めが目的です。
供養と称して信者から多額の喜捨を募り、その見返りに奉安されます。
真正仏舎利を奉安するから供養しなさいではなく、金を出さないと、阿含宗の道
場だというのに奉安させないのです。
金集めができなかった道場は今も偽の真正仏舎利すら奉安されていません。
阿含宗は外に向かっては真正仏舎利奉安をうたい文句にしながら、金を出さない
信者たちには道場ですら拝ませないのです。
台湾では1991年に道場が開設されると同時に真正仏舎利奉安が行われました。
ところが、1998年、スリランカからの7粒のうちの1粒を台湾に分骨するとし
て、盛大な奉送式を行っています。
二度も真正仏舎利奉安が行われたのは、台湾での柴燈護摩を機会に、信者からの
多額の喜捨があったからだと言われています。
各道場への勧請などを理由にして金を集めるのは仏舎利だけではありません。
朔日護摩の受信装置は民生用では十万円もしないのに、三百万円ほどを払わない
と道場には設置が許されません。
仏舎利に続いて大黒天、愛染明王、阿弥陀如来、文殊菩薩など様々な神仏を道場
に奉安するとして、信者たちからの集金の手段に使っています。
仏舎利もこれらの神仏や受信装置と同様に、金集めの道具にすぎません。
(written by ヌマエビ)
「偽の真正仏舎利」 77.仏舎利によって御利益教団に変身
1986年、スリランカから仏舎利をもらうと、これを本尊としただけでなく、それ
までの千座行を捨てて仏舎利行(仏舎利宝珠尊解脱宝生行)になりました。
千座行は、長い勤行を千日の間一日でも欠かせば振り出しに戻るという厳しいも
のでしたが、仏舎利行では事実上これがなくなりました。
桐山氏は勤行ではなく、功徳を積むことを信者に強く求めました。
千座行は仏と導師の力を借りながら、自力で因縁を切っていくという方法でした。
仏舎利行は供養と称して、信者獲得や教団に金銭や労力を提供することで、功徳
を得て、功徳と差し替えに因縁を切ってもらうという方法です。
功徳というと聞こえが良いが御利益です。
看板にすぎなかったものの、自力修行を打ち出していた阿含宗がこれを下ろし、
仏の力にすがるという他力の信仰に変わったのです。
千座行時代には御利益信仰は低劣で時代錯誤だと軽蔑さえしていました。
ところが、軽蔑していた御利益教団に変身してからは、年を追うごとに御利益が
中心になり、信者たちに露骨に欲望を煽るようになりました。
「仏舎利宝珠尊こそ、これを保持して一心に呪文を唱えて、望むことを願うな
らば、必ず望みごとをかなえてくれるのだ。」
などと、当時公開されたディズニー映画を真似て、仏舎利をアラジンの魔法のラ
ンプにたとえて、桐山氏は御利益を前面に出すようになっていきました。
仏舎利を本尊にして自力から御利益へと宗教的に大きく変化したように見えます。
しかし、これは桐山氏の言うような釈尊からのご霊示や仏舎利のお手配といった
宗教的な理由ではなく、もっと切実で現実的な問題があったからです。
(written by ヌマエビ)
「偽の真正仏舎利」 78.仏舎利行は信者獲得のための秘策
本尊まで変えて、新興宗教としては平凡な御利益宗教に衣替えしたのは、仏舎利
行では最も重視されているように、入信者を増やすことが目的でした。
桐山氏は昔から百万人の信者獲得を目指していました。
阿含宗を大教団にして、創価学会や立正佼成会のような社会的な権力を得ること
を望んでいた桐山氏にとって、百万人の信者は切実な目標でした。
1980年代初頭、阿含宗は飛躍的に入信者数をのばしました。
「守護霊を持て」などの本が売れ、チラシ配布による映画会が成功し、金をかけ
た大規模な宣伝により、入信者が飛躍的に増大しました。
星まつりに参拝者が押し掛け、道路が大渋滞したのもこの頃です。
しかし、勢いはほんの数年だけで、1980年代中頃になると潮は引いてしまいました。
ダライラマとの合同法要やバチカンでのローマ法王との握手など、外向きには
華々しいイベントが続いていた一方で、入信者が減っていきました。
入信者が減っただけでなく、辞める人も多く、信者数が減少していきました。
信者が定着しなかったのは、派手な宣伝ばかりで実体がなく、また、入信してき
た信者の世話をすることがなかったからです。
他の信者の世話という一番手間暇のかかる仕事が何の評価も受けず、目先の入信
者数だけが誉められたら、世話することに熱が入らないのは当然です。
釣った魚に餌をやらないという桐山氏の昔から今日に至るまでの問題がこの時も
露呈しました。
阿含宗への批判本が追い打ちをかけ、信者数の減少に歯止めがかからなかったの
です。
桐山氏は信者獲得の勢いを盛り返すのに、巨額の資金で手に入れたばかりのスリ
ランカの仏舎利を使うことを思いつきました。
(written by ヌマエビ)
「偽の真正仏舎利」 79.桐山氏の願い事がかなわなかった仏舎利
桐山氏の目標とする百万人のはるか手前で信者数は減り始めました。
原因は、文筆や口がうまいから何事かあるかのように自分を大きく見せて人を集
めるのは得意だが、中身が伴わないという桐山氏の欠陥です。
問題解決に、桐山氏はいつものように、自分の欠点を是正して信者の流出を抑え
るよりも、新しい信者を獲得するという得意技を選びました。
大統領からの仏舎利という新しい宣伝材料を得て、千座行を捨て、真正仏舎利の
御利益を売り物にして信者を増やすことを桐山氏は思いつきました。
仏神の力に頼り、御利益を売り物にするのは日本の新興宗教では一般的です。
梵行で徳を積むのだとして、信者獲得など教団拡大に信者たちを駆り立てました。
阿含宗は、実体の伴わなかった自力修行の看板を下ろして、御利益と信者獲得を
セットにしたありふれた新興宗教に変身したのです。
しかし、本尊まで変えてしまうというなりふり構わずの桐山氏の作戦は信者獲得
にも、信者減少を抑える効果もありませんでした。
御利益で人を集めている大きな教団にはそれなりの努力とノウハウがあります。
阿含宗のように突然看板だけ変えても、宣伝と中身に大きな落差があり、入信し
たら面倒も見ないというのでは、御利益を願う者ならなおさら付いてきません。
「必ず望みごとをかなえてくれる」という仏舎利を拝んでも、桐山氏の百万人の
信者獲得の望みごとがかなえられることはありませんでした。
桐山氏が仏舎利を売り物にする時に初歩的な間違いをしたことも大きな理由です。
(written by ヌマエビ)
「偽の真正仏舎利」 80.仏舎利は御利益信仰には向かない
桐山氏は仏舎利を本尊として御利益を売り物にすることを素晴らしいアイデアだ
と信じていたようですが、基本的な間違いをしています。
これは仏舎利が本物であったかどうかという問題ですらありません。
御利益を求める人たちにとって、真正仏舎利という桐山氏の開発した新商品は魅
力的には映りませんでした。
なぜなら、釈尊は実在の人物であり、欲望を否定したらしいことは仏教徒ならた
いていの人が漠然と知っているからです。
欲望を否定した釈尊を欲望の本尊として売り出しても、仏教的な土壌のある国で
難しいことは、二千五百年の仏教の歴史を見れば十分です。
東南アジアの上座部仏教では、中心に仏陀を祭って礼拝しても、在家の人たちは、
周囲の土着の神仏にお願い事をするのが見られます。
大乗仏教でも、釈尊よりも他の仏菩薩が祭られることが多いのは、釈尊は御利益
を願う相手にしてはあまりに厳しい存在だからです。
桐山氏は欲望を否定した釈尊を欲望をかなえてくれる仏として売り出したのです。
いくら桐山氏が大宣伝しても、日本人の心の中にも、釈尊とは欲望に厳しい人で
あったという共通の概念があります。
仏頂面の釈尊に欲望をお願いするという桐山氏の目論みは成功するはずはなく、
事実、信者獲得という一番の目標には役立ちませんでした。
欲望を否定した釈尊を欲望の本尊とするという馬鹿げたことをしただけでなく、
偽物を本物だと宣伝したため、阿含宗に致命的な矛盾を引き起こしました。